|
1935年 愛知県瀬戸市に生れる 1957年 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業 第1回 東京国際版画ビエンナーレ展 入選、以後第6回展(1968年)まで出品 1963年 メキシコヘ渡航,現在に至る 1964年 メキシコ青年版画展第一席 1969年 第1回全メキシコ絵画コンクール州賞第二席 1977年 日本文化庁買上 1989年 第11回 秀作美術展(読売新聞社) 1990年 回顧展 池袋西武アートフォーラム(東京) 1993年 回顧展 キリンプラザ大阪 1997年 日本人メキシコ移住100周年記念個展 丸栄〔名古屋) 1998年 個展 伊勢丹新宿店美術画廊 回顧展 下関市立美術館 2000年 回顧展 メキシコ、ケレクロ州立美術館 |
|||||
|
先住民の伝統文化が郷愁を呼び起こす ―遠く離れたメキシコに「失われた日本」があった― |
|||||
|
メキシコ南部のオアハカ州の小さな町、トラコルラ。ふだんは静かなこの町も、日曜日になるとにぎわいを見せる。山に住んでいる先住民たちが、お祭りのような露天市「ディアンギス」に集まってくるからだ。
彼らはきらぴやかな民族衣装を身にまとい、花や香辛料、陶器、さまざまな民芸品をかごに詰めてやって来る。 そんななか、ソンブレロを斜めにかぶり、市のにぎわいに目を輝かせる一人の男がいる。物腰柔らかな日本人の彼こそ、誰よりも遠くからこの町にやって来た男だ。画家であり、オアハカ州立自治ベニト・フアレス大学芸術学校の美術学部長も務めている竹田鎮三郎である。 竹田は1963年、メキシコ美術の「魔術的リアリズム」を肌で感じとろうと、地球を半周してオアハカにやって来た。それから36年、オアハカは完全に竹田の故郷となった。この地の豊かな伝統が、彼のインスピレーションとアイデンティティーの源となったのだ。「私はオアハカの人間になろうと努力してきた」と、竹田は言う。「そして、ほとんどなれたと思っている」 メキシコ美術に魅せられ これほどまでに遠く祖国を離れた土地で、日本人画家の竹田はどのようにして自分自身と自らの芸術を発見したのか。サンアンドレス・デ・ワヤカン村にある自宅のテラスで、竹田は日本茶を飲みながら語りだした。 それは、運命的にもみえるほど自然な流れだった。 竹田は、陶業で知られる愛知県瀬戸市に生まれた。家が農家ということもあり、故郷に強い愛着をいだいていたが、画家になる決心をして上京。だが、当時の日本の画壇を支配していたヨーロッパ流の抽象絵画になじめず、北川民次の弟子になることを決意する。 北川は、メキシコを代表する画家のディエゴ・リベラやルフィーノ・タマヨとの交友もあった特異な画家。竹田は北川の鮮やかな色調や量感豊かな人物像に影響受けたばかりか、その左翼的な政治思想にも深く感化された。「労働者の画家になるんだと、自分に言い聞かせていた」という。 そして、竹田はメキシコヘと旅立つ。メキシコ市にある文化博物館所長の画家として:一年を過ごした後、竹田はオアハカに移る。「労働者」と彼らの伝統にさらに近づくのに、オアハカ以上の土地はなかった。 オアハカ(州都も同名)はメキシコで最も貧しい地方の一つだが、豊かな文化遺産に恵まれている。16世紀前半にスペインの侵略を受けて植民地化されたものの、先住民のミステカ族とサポテカ族はそれ以前に固有の美術や宗教を確立していた。その伝統は、先住民自らの手で今日まで守り統けられている。 近年では、アメリカをはじめ世界中の人々がオアハカの伝統美術に関心を向けるようになり、市内にもギヤラリーや工房が目につくようになった。とはいえ、今でも伝統民芸品の大半は、市の周辺に散在する先住民の村々で作られている。 それぞれの村が独自の民芸品を守り育てている。たとえば、サンフアン・デ・ティルカヘテは彩り豊かな木形りの動物、サンアンドニノは刺しゅうをあしらった民族衣装、テオテイトラン・デル・バジェは毛織りのじゅうたんだ。 竹田も画材を見つけに車で村々を訪れる。テオティトランヘと車を走らせながら、竹田は天然染料について話をしてくれた。そして途中で車を止めると、道端のサボテンからコチニジャという虫をつまみとり、紙にこすりつけた。すると、鮮やかな赤紫色が紙の上に表れた。 精神的な師は地元の呪医 オアハカで暮らす日本人は竹田夫妻だけではない。19世紀後半にやって来た日本人移民の子孫が、今も農業に従事している。最近になって移住してきた人もいる。 その一人、村元真美は外国語学校で日本語を教えている。彼女は86年、スペイン語と伝統織物を学ぶためにこの地にやって来た。村元はすぐに地元の男性と結婚し、日曜ごとに全員が集う大家族の一員となった。「伝統と年長者を大切にするという点で、オアハカと日本は家のあり方が似ている」と、村元は言う。「だから、ここにいても落考ちける」 だが、竹田ほどオアハカの地に溶け込んでいる外国人はいない。竹田は作品のテーマを求めて、あるいはマツタケを採るために山を歩く。だが山歩きにはもう一つ、大きな目的がある。精神的な師と仰ぐ地元のプルホ(呪医)の教えに従って、自然との神秘的な触れ合いを求めているのだ。 サソリや花、追跡、宗教的祝祭など、竹田はオアハカ固有のテーマやシンポルを描き統けてきた。78年にはメキシコ政府から名誉ある表杉も受けた。大学教授でもある竹田は、オアハカの後進たちに大きな影響を与えてきた。自分のルーツに立ち返れ、というのが竹田の教えだ。 皮肉なめぐり合わせを感じているのは竹田も同じだ。自分の文化的ルーツを大切にせよ――自分が日本でしなかったことを異国で学生に教えているのだ。 タバコを深々と吸いながら、竹田は再びが語りだした。オアハカを愛しているのは、自分の先祖たちが住み暮らした自然のままの日本にいるような気持ちにさせてくれるからだという。 「私は、移ろいやすい現代的なものには関心がない」と、竹田は語る。「古い伝統と、その土地にしかないものに引かれる」 その点で、竹田とオアハカは完壁な組み合わせだ。どちらも、ほかにはない存在なのだから。 ――ブルック・ラーマー |
|||||