| 草間弥生
怖れを克服するために始めた創作が、1960年代にニューヨークを席捲した。そして今、創作の向こうに新しい地平をみている。 |
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| 怖さの克服
薄い絹のようなカーテンが草間を包み込むことがある。このカーテンが現れてしまうと,みるみるうちに草間と世界との距離は開いていく。人の声は耳に届かなくなり、視界は遮断されてしまう。1人ぼっちで放り出される、この未知の世界が草間には怖くてたまらない。世間は、”精神の病”でかたづけようとするが,草間にとっては紛れもない現実なのだから。カーテンの出現は少女時代から今に至るまで草間を悩ませ続けているという。そこから逃れるぺく,草間の選んだ方法が創作だった。えたいの知れないものを視覚的に再現していくうちに恐怖感は克服される。草間が怖かったのはカーテンに包まれることぱかりではなかった。世間では恐怖の対象にならないものが草間には怖いこともある。たとえばセックス――。草間はこう語る。「まず男女の格好が不味気じゃない。それに子供ができればお腹がどんどん大きくなっていく。これは怖いことよ」。セックスもまた創作活動へとっながっていく。草間の作品でボート,台所用品,靴などに紡錘形の布の詰め物がびっしり生えているものがある。この奇妙な突起物がセックスのシンボルである男性の性器だという。 《ドレッシングテーブル》1990年 『WHO'S WHO』 1955年、26歳の草間は渡米を決意する。10歳にして将来は偉大な画家になるはずだと確信していた草間には日本にとどまっていたら運命が開けないように思えたのだ。だが容易に外国へ行ける時代ではなかった。どうすれば何のコネもないアメリカへ渡れるか。草間は考えた末に,アメリカ大使館に飛び込んだ。著名人の紳士録『WHO'SWHO』で女流画家ジョージア・オキーフの住所を探すためだ。もちろんオキーフとは何の面識もない。ただ少女時代に彼女の絵を画集で見たことがあっただけ。さっそく草間はオキーフに手紙を送った。「私はラッキーだったわよ。オキーフが返事をくれたんだもの。私にもファンレターが届くけど,絶対に返事は書かない。私の手紙が売られているのを見てゾッとして以来ね」。オキーフは見も知らぬ草間に激励の手紙を何通もくれた。それでも現実にはアメリカでの身元引受人はなかなかみつからない。カ細い手づるを伝って,なんとか移民の実業家未亡人にたどりつくには時間がかかった。1957年12月,草間はやっと念願の渡米をはたせた。草間の新天地ニューヨークでは,ちょうどアクションペインティング全盛で,多くの画家がそれ風の絵を描き,しかもそれが飛ぶように売れていた。だが草間には無縁のこと。草間は水玉や網など自分の創作活動を貫いた。売れている画家がこう忠告したそうだ。「ヤヨイ,外を見てみろ。無意味なことを続けても時間の無駄だぞ」。異国の地では生活していくにも不自由だらけ,おまけに草間がのりこんだのは競合が厳しい美術界。ニューヨークでの生活は第2次大戦中よりも苛酷だった。 しかし時代は草間に味方した。60年代に入ってから,草間の創作活動は美術界を風靡していく。セックスや食物をテーマにした立体作品から,鏡や電気を用いた空間の創出,パフォーマンスまで常に美術界の最先端を走り続けた。「世界中に号令をかけられる」作家となった草間は,オキーフの住所を探した10年後,『WHO・SWHO』に登録された。 ニューヨーク再訪 ――日本へ戻ってから15年ぶりの今年9月,草間は再びニューヨークの地を踏んだ。CICA(国際現代美術センター)のオープニング記念である草間の回顧展に参加するためである。「私が”とっておき魔”だからCICAのオープンが遅れちゃったのよ」と草間は言う。捨てずに保管しておいた手紙やメモなどにCICAのスタッフが注目,その整理が予定されていた開館日に間に合わなかったのだそうだ。それももっともなことだ。第一級の草間研究資料が初めて公開されたわけだから。それに,オキーフからの手紙はもちろん,ジョセフ・コーネルが草間に宛てたラブレターなどアメリカ戦後美術の貴重な史料が新たに発見されたことにもなる。コーネルは多い日には1日で17通の手紙をくれたという。かつては草間の華々しい活動の舞台だったニューヨークもすっかり様変わりして見えた。麻薬が蔓延し,スラム化の進んだ街。そこにはかっての活力はみいだせなかった。」一番驚いたのが美術館巡りをしたとき。私がいた頃から進歩していない。新しい美術品がどこにも見当たらなかった。日本ではニューヨーク美術界のスター作家達が喧伝されているけれども,それは虚像にすぎないJ。それでもニューヨークは"腐っても鯛だと言う。日本と比へれば文化に対する許容量が桁違いに大きいのだ。草間のような現代美術の作家を後押しする力は日本ではまだまだ非常に小さい。しかし,どこで制作するかという問題はすでに草間の関心事ではない。国際的に認められていないならともかく,海外から展覧会の誘いが来るんだから」と言いきるほどである。 CICAの回顧展に続き,11月からはイギリスで,来年はスイスでと立て続けに個展が予定されている。「ニューヨークの現状を見ていると,今は日本で作品を制作するのが能率的だと思う。ニューヨークに住むとなれぱ1日の99%は治安への気苦労で終わってしまうでしょう」。草間には自分の創作を認めてくれたニューヨークヘの郷愁はすでにないのかもしれない。草間が意外な発言をした。「私は自分を芸術家だなんて思えなくなっているんですよ。50年間創作を続けてきて,実は芸術の入口をかいま見ただけ。いわば足場を築くための50年だったように感じています。足場はできたけど,空を仰ぎみたら星はまだ手が届かないほど遠くにある。やっと今,芸術の背後にあるものを探るチャンスが到来しました」。草間は創作の向こうに何を見い出そうとしているのか。=文中敬称略=(廣松隆志) 草間弥生とヤヨイ・クサマ 神野分男氏(会社社長) 「天才」という言葉が「市民」という言葉の裏返したとすれば,奇異とか異常とかの意味になる。日本の近代は少しだけ天才を産んだと日本の美術史には記されている。青木繁や関根正二のことだ。でも青木も関根も海外から「シゲル!」、「ショウジ」とお声がかからない。日本の近代はB-29にとどかなかったのだ。日本軍の高射砲のように「やってるぞ」と見せただけ。日本の天才は奇異を装った市民であったらしい。 欧米にも翻訳のある「源氏物語」の作者,紫式部。彼女は生きていた頃,天才と呼ぱれたのだろうか。1000年も前,シキブ・ムラサキは中国語を話し,古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」を読んでいたと私には思えてならない。だから日本の「物語」が世界に通用する文学になりえたのである。 草間弥生からの電話は「Let me see」で始まり,いつも一方通行だ。彼女が話す言葉は,ジョセフ・コーネル語とイヴ・クライン語。だから日本の美術が世界のアートになる。1000年も先に。だから僕は「今」に夢を見る。ヤヨイ・クサマに襲われる夢を。夢から醒めてから草間弥生の作品をみてみるとそこでは「おしべ」がまた一つ「増殖」していた。 『作家の美歴書』より |
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