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《エンヴァイラメント No.1 レインボールーム》(部分) |
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| 画家 靉嘔さん あい・おう1931年茨城県主まれ。本名は飯島孝雄。東京教育大(現筑波大)芸術学科卒。油彩や版画を中心に、すべてを紅色に彩る「虹の作家」として世界的に活躍する。ハプニングで知られたフルクサスヘの参加(主に60年代)、近年もエッフェル塔の先端から紅色の旗をつるすイベント開催など活動は幅広い。日本芸術大賞、紫綬褒章など受賞(章)多数。(茨城県玉造町の自宅で) | ||||||
| 「絵はガッツだ」と言ってこぶしを振り上げる仲間を、次第に冷めた目で見始めていた。1950年代、ニューヨークでは絵の具をしたたらせ、ぶつけるアクション・ペインティングが絶頂期を迎えた。たくさんの作家がジャクソン・ポロックが創始したこのアクション.ペインティングをまね、絵の具と一緒に体ごと画面にぶつかっていくかのような混沌と躍動に満ちた作品を競った。靉嘔さん自身、その一人だった。だがまねているだけでは、いつまでもポロックを超えられない。 「まがい物を作っている気がしました。自由と独創を求めて渡米したはずなのに……」美術を志した靉嘔さんは大学在学中、瑛九を中心とするデモクラート美術協会に入った。「希望は自由なる組織に」をうたい、既成の権威や枠にとらわれずに行動するメンバーと自由な創作に励んだ。卒業の前年、友人に「新しい名前をつけるので『あいうえお』の中から1字を選んでくれ」と頼んだ。10人ほどの友人が選んだのは、「あ、い、お」の3文字だった。当時よく描いていた雲のイメージあいたいに誘われ、雲がたなびくさまを言う靉靆から靉を、読みふけったサルトルの小説「嘔吐」から嘔をとって漢字に当てた。新たな造形や価値の創造を自らに課し、その誓いを心に刻むつもりで改名したと靉嘔さんは振り返る。海外から流れ込む新たな動向の中で、とりわけマルセル・デュシャンにひかれた。既成概念を否定するダダ(反芸術)の中心として活躍したデュシャンは、フランス生まれでアメリカに新天地を求め、自由な創作に打ち込んだ。自分もアメリカで試したいと思った。58年、ニューヨークに渡った。2年間で大作を150点描き、街中の画廊に売り込んだ。だが一点も売れない。それもそのはずだ。アクション.ペインティングがアメリカを席巻していた。床にキャンバスを置き、バケツに絵の具やペンキを溶いて、まき散らすように画面にぶちまけてみた。不思議と売れ姶めた。だが徐々に違和感が膨らんだ。自分がポロックの亜流に成り下がったことを悟った。 二度と他人のまねをしない、と自分に言い聞かせた。頼れるのは自分だけだ。行き着いたのは五感だ。自分の五感を信じ、それぞれの探求の先に100%の独創を夢見た。穴に指を入れて中のものに触れるという触覚を刺激する作品などを試みた。視覚のためにはどんな作品を?線や形、さまざまな造形要素の中で色彩に注目した。色彩が最も強烈に、純粋に視覚を刺激すると考えた。フェルナン・レジェは白、イヴ・クラインは青1色の作品を作った。自分はすべての色彩を取り込みたいと思った。虹が浮かんだ。光はあらゆるものを映し出す。その光自身の色、つまり虹色こそ、その願いにふさわしいと思った。 「虹には希望や幸福のイメージが重なります。自分の夢を、虹に重ねる気持ちもあったかもしれません」 アトリエの壁にキャンバスを並べ、上から1本ずつ色の帯を描いた。虹色の順に、それぞれ少しずつグラデーションを加えながら7色を根気よく塗った。間もなく個展の機会を得た。壁を虹のキャンバスで埋め、床には胴体だけの木型にやはり虹を描いた一対の男女を並べた。64年秋、会場全体が虹色に染まる《エンヴァイラメントNO.1レインボールーム》が生まれた。2年後、さらに工夫を加えた作品がベネチア・ビエンナーレで大反響を呼んだ。「虹のアイ・オー」の名が、一躍世界を駆け巡った。【石川健次】 (2001/7/29毎日新聞より) |
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