三年前、パリのエッフェル塔から三百メートルの虹のリボンを掛け流してパリの話題をひっさらった靉嘔氏――「虹の靉嘔」と評されるようになるまでには人知れず模索の孤独な格闘があった。氏の創造の背景こま何があったのか、うかがった。
虹の靉嘔と呼ばれて
――靉嘔さんは先ごろ、日本芸術大賞を受賞されましたね。
靉嘔 私もびっくりしました。受賞の知らせはニューヨークで受けたのですが、朝の四時ごろ日本からの電話で叩き起こされまして、夢うつつでしたよ。まったく予期しない受賞でしたが、今まで私を支援してくださった方々に、心からお礼を申し上げたい。
――靉嘔さんは「虹の靉嘔一といわれるほど虹をモチーフにした作品が多いですね。
靉嘔 ええ、虹が僕にやってきたのは一九六二年ごろだったと思います。ですから、もう二十七、八年前ですね。
――なかでも話題になったはパリのエッフェル塔の天辺から「虹」のリポンを地上へ掛け流されたことでした。
靉嘔 あれは三年前でした。長さ三百メートル、幅五メートルという大変大きなもので、自分でいうのもなんですが、すごい試みでした。とにかくエッフェル塔から僕の虹を掛けたかったんです。
――それを見たフランス人は度肝を抜かれた。
靉嘔 エッフェル塔といえば、ああいう建築物では世界で一番奇麗な建築物だと思っています。そこから掛けてみたら、どんなものができるか、そういう思いがあったわけです。実は、その前に、日本でも永平寺の五代杉から紙で作った虹のリボンを掛けたことがありました。それがとても奇麗だった。じやあ、今度はエッフェル塔に掛けてみようという発想でした。それで、フランスの友達に手紙を書いたわけですが、その友達から、面白いからぜひやってみたらどうかという返事がきました。彼がフランス近代美術館の館長に私のことを話して<れ、館長も面白いということでしたので、私は早速会いに行きました。
――ご自身で行かれたわけですね。
靉嘔 ところが,そのキュレーターは美術館を辞めてしまって、そこにはいませんでした。が、パりのシラク市長直属の芸術担当者に話をしてくれていて、その人に会ったら興味を示してくれましてね、私自身はフランス革命二百周年に向けてやりたかったんですが、その前年がエッフェル塔五十年に当たる年で、シラク市町はその五十年祭にやりたいということだった。こういうチャンスはもう二度とやってこないだろうと思いまして引き受けました。
――いろいろご苦労があったと思いますが。
靉嘔 まあ、周りからはシラクの政治宣伝に利用されたとかいろいろいわれましたよ(笑)。でも問題は、資金でした。お金が全然ありませんでしたから、各方面駆けずり回って私の夢と考え方を話しました。また、非常に大きいものですから、大変な重量でね、東京ドームを手掛けられた竹中工務店にも応援をいただきました。それから、消防署もうるさくてね、布じゃ駄目だ燃えないものでやれといわれ、サンプルだけは燃えないものを持って行ったり{笑)、もう丁々発止で、なんとか実行にこぎっけたわけです。
オリジナリティーこそ生命
――そうした大胆な試みを実現できる風土というのも、芸術の都パリならではですね。
靉嘔 やはり、ああした大きな試みを実施してみると、その国の芸術に対する理解度がよくわかりますね。日本ではまずできなかったでしよう。日本では芸術家はなかなか伸ぴられないですね。飯が食えないんですよ。日本では、多少絵が下手でも外国から帰ってきたというだけで評価が上がる。本当は国内にも若い人で才能のある人がたくさんいるんですが、そういう才能を無名なうちから評価し、育て上げる風土がありません。無名の人を育てようという人がいないということですね。
靉嘔 ほとんど潰れてしまうんですね。私の若いときの仲間でも、飯が食えなくて、潰れていった人がたくさんおりました。逆にいうと、独創的な発想を持つ人は若いうちから外国に出ていってしまうんです。欧米の場合、人まねをしては生きていけない,どんな小さなものであろうと、そこに自分で発明したオリジナリティーがなければならない。もちろん日本にもオリジナリティーという言葉はありますが、日本の場合は、例えば、雪舟が中国の水墨画に惚れて一所懸命勉強して自分なりの境地を開くというようなものなんですね。
――欧米では、水墨画から脱皮したものでなければならない、と。
靉嘔 もっと極端な言い方をすれば、日本では、頭のいい作家は外国の文献を読んだり作品を見て、流行の最先端のものに取り組めば、日本の評論家がそれを評価した論評をする。それはすでに認められているものだかち自信をもって評価できるわけですね。
ところが、そうして日本で評価された人が、欧米に行っても通用しません。欧米では極端な話、どんな下手くそな絵でも、絶対に人まねをしないで、こつこつ自分の絵を描けば、だれかが買ってくれます。だから、欧米ではみんな勇気を持って勝手なことができる(笑)。そういう生きがいがあるわけです。
――靉嘔さんご自身も、お若いころ、ニューヨークに行かれましたね。
靉嘔 はい、一九五八年でした。私はそれまで東京教育大学芸術学科に在学中からデモクラート美術家協会展に出品したり、池田満寿夫らとグループ「実在者」を結成して活動し、卒業後も個展を開いたりして、自分でもある程度、新進作家だと思ってニューヨークに行ったわけです。
――アメリカで勝負したいと思われたわけですね。
靉嘔 そうです。当時、私は何百号という大きな油絵なんかを描いていましたから、望みも大きかったわけですが、実際に行ってみると、鼻にも引っ掛けられない。当時のアメりカは、たしかアクションペインティング(抽象表現主義)全盛の時期でしたね。
靉嘔 はい、ジャクソン・ポロッフとかデ・クーニングなんかがもてはやされていました。アメリカにもやはり流行がありまして、それに乗らないと第一線で活躍することはできません。しかし、私はその亜流にはなりたくなかった。人のまねをするのは嫌いだから、こんちくしょうと思いながら、三年ぐらいは自分の絵を描き続けておりました。
――当然ながら、生活は大変だったでしょう。
靉嘔 ですから、とうとうアクションペインティングに降参して、それを描き始めました。すると、絵がよく売れるんですね。やっぱり日本人はまねが上手なんですね(笑)。私以外にニューヨークでそれをやってる日本人もよく売れていました。
人のやらないことをやりたい
――しかし、本意ではなかったわけでしよう。
靉嘔 もちろんです。そこで私は考えました。ニューヨークでアクションペインティングやって売れたからといって、しょせん,ジャクソン・ポロッフとかデ一クーニングを超えられるわけじヤない。やはりアメリカに来たからには彼らよりも上になりたい。世界で一番になりたいという気持ちガ強くありました。
――鶏口となるも午後となるなかれですね。
靉嘔 そういう心境です。私がアメリカに行ったのは、画家として一旗あげたいというようなことではなくて、日本にいるときからポロッフとかディシヤーンが好きでした。
――ディジヤーンもアクションペインティングで有名な人でした。
靉嘔 しかもアメりカには新しい面白いアートが誕生していると聞いていたから、アメリカにあこがれていたんですね。当時はパリがあこがれの的でしたが、フランスに行ける人は限られていましてわ。東大出の優秀な人たちが留学試験にパスして行けるぐらいで、私なんかフランス語もできないし、友達なんかが試験を受けて落ちたりしているのを見て、私はばかぱかしくなってね。それでニューヨークに渡ったわけです。
――それで、アクションペインティングをやめて、どうされたのですか。
靉嘔 それで、自分だけにしかできない何かを模索しました.経済的にも精神的にも非常に苦しかったわけですが、その苦しみの中で初めて、本当の意味でのオリジナリティーに目覚めたと思います。
――最初に作られたものは、これまでの芸術の範疇では分類できないものだったとか。
靉嘔 そう、絵でもなければ彫刻でもない。へんてこりんなものを始めたんです。とにかく二度と人のまねはしない。まねして売れても同じ後悔をするだけだと思ってね。もちろん旧来の絵画をも全面的に拒否する以外にニューヨークでの私の立つべき瀬がなかった。その模索の孤独な格闘の中からつかみとったのが、コンクリート・アート(具体芸術)という目標だったわけです。初期の作品には、触覚に訴える箱シリーズというのがありますが、ボックスの中に指を突っ込ませてその指に何かを感じてもらうというものです。
――それで評判になった。
靉嘔 とにかくこれがオリジナリティーだと思ったら何でもかまわずやってみることです。そうしているうちに、変なことをやってる日本人がいるといって評判になる。それなりにね。すると変なアメリカ人が寄ってくるわけです一(笑)。それで友達になってできたグループがフルクサスというグループだったわけです。
――フルクサスのメンバーは今でも世界的に活躍していますね。
靉嘔 ヨセフ・ボイスだとか、オノ・ヨーコもそうですね。彼女、僕が会ったころはアートは作ってなくて、どちらかというとオーガナイスしてましたね。僕のこともオーガナイスしてくれてね、一所懸命、作品も売り込んでくれました。それでこのグループはとにかく箸にも棒にもかからない人聞ばかりが集まってできたわけですが、不思議なんですね。へんてこりんなものって、何の関連性もなく世界のいろんなところで同時に起こるものなんですね。共産圏にも自由主義圏にも現れて、それをまとめた人がいるんです。それがジョージ・マチウナスでした。もう死にましたが、彼のおかげで、それぞれの人が有名になって、各国で芸人の校長先生とか大指導者になりつつあります。
六感を取り込む
――その辺りから感覚の世界に入っていかれたわけですね。
靉嘔 そうですね。私自身、何か確たる見通しがあったのではなかったのですが、触覚や聴覚、臭覚、味覚、視覚などにかかわりのあるさまざまなオブジェやエンバイラメントの制作、イベントの実行に打ち込みました。
――なるほど。虹シりーズを始められたのが一九六四年でしたね。靉嘔さんは、人のやらないことをやってきたという、口でいえば簡単ですが、実際は大変な困難な道だったでしょう。
靉嘔 まさに未知ですから(笑)。人のやらないことというのはサンプルがありませんからね、古典を「一所懸命勉強してエッセンスを取るというのなら、ある程度見当がつきます。師匠もいるだろうし。だけど私の場合は師匠もいない。やっぱり思想的なものが一番の僕の師匠でしたね。
どうしたら、おれはそういうアートを作れるか、新しいものを発見できるかということ。発見する方法を考えなければならない。死ぬまでに一つ作れぱいいなんていっていたんでは間に合わない。毎日、毎日、新しいものをやっていかなければ駄目なんです。そのためには、それに喜びを感じて、退屈せずに仕事ができるものは何か、という世界を見つけることです。自分で好きな仕事だったら一所懸命やるだろうしね。
――それは芸術家でなくても同じでしょうね。
靉嘔 僕なんか、本当はアーチストなんか非常に軽蔑してたんですね。いわゆる芸術家タイプって、いるでしょう。他の人には迷惑を掛けて、酒飲んだくれて、親戚中に迷惑をかけるという。僕はそういう自己破滅的な芸術を拒否したんです、ある意味では。人に迷惑をかけずに、社会の人と同じ考えで暮らして、その中から何か新しいものを作り出したい、新しいものを見付けたい、そう思いました。そう考えると、現在、世の中で進行している科学とか、そういうことも参考になるし、毎日ここに居て、じっとして外を見ていても、その中から何かやってくるし、向こうからやってくるものを素直に受け止められる気持ちができれぱいいんです。
――なるほど。
靉嘔 新しい仕事ってのは、そういうふうにしか見付からないと思うんですね。それがいいとか悪いとか、お金が儲かるとか儲からないとかいうのは、後からの話です。
逆境も悲しまない
――ところで、名前が売れるまでは生活するための困難も多かったでしょうね、お金の問題とか。
靉嘔 私はなんというのか、いわゆる貧乏に対して無神経なんですね。貧乏が悲しくないんです。それが私の取りえだと思いますが、大体、私はオプティミスティックなんです。ただ、割合に僕の絵は売れましてね、大量に売れたりはしなかったんですが、買ってくれる人がいて、そこそこ食うに困らないだけは売れました。アメリカに渡ったときは全然お金がなくて、何日も空腹を抱えて我慢したこともありますが、それでも、つらいと思ったことはなかったですね。
――そうしますと、壁にぶつかって、もうやめようと思われたことはなかったのですか。
靉嘔 いや、アクションペインティングをやって、えらい売れたときには絵を描くのをやめたわけです。絵など描くまい、絵なんて古いから、絵を描いていたら人のまねだ、と。極端だといえぱ極端だけど、そこまでいったんです。
――でも、そこから「虹シリーズ」が生み出されたわけですから、逆境を創造へのエネルギーに変えられたわけでしよう。これからはどういうことを考えておられますか。
靉嘔 まだまだしなくちゃいけないことがいっぱいあるんです。私は私なりの六感をきちんと持って、明快にしていくことなんだけれども、まだ五里霧中で、明快じゃないんです。例えば、私は、日本では虹で知られましたが、外国では触覚の作家として知られておりましてね。ただ、触覚というものが、それほど日本に伝わらないというのは、そういうことをやる人があまりいないんで、なかなかブームにはなりませんけどね。
――日本はブームにならないと、評価しない傾向がありますからね。
靉嘔 ですから、かつてやった触覚の作品、今でもヨーロッパの人なんか、うんと望んでいるんです。だから、もう少し、きちんと触覚の仕事をやりたいというのが最近の一つの気持ちなんですけども。
――困難な仕事にあ<までも立ち向かっていかれる、と。
靉嘔 ともかく、人のやらないことをやろうとしているわけですから、困難があるのは当たり前でね。そんなことを気にしていたら、創造的な仕事はできません。やってみなけれぱわからないことは、とにかくやってみるしかないですからね。あまりペシミスティックにならずに、オプティミスティックに取り組んでいきたいですね。
――健康面も大切でしょうね。
靉嘔 それはそうですよ。体調が悪いときはいい作品はできない。体調がいいときは、すべてが調子よくなってね..やっぱり、相当体を鍛えないと駄目です。ですから、とくに健康法というものはやっていませんが、屈伸運動ぐらいですか。それと一週間に二、三回は一時間半ぐらい歩きますけど。
あい・おう 昭和6年、茨城県に生まれる。同29年東京教育大学卒業同30年タケミヤ面廊で初の個展。同33年ニューヨークに渡る。その後、フルクサスグループに参加し、同39年より「虹」のシリーズを始める。その後、世界各地で個展やイベントを開催「これまで版画、絵画、彫刻で、多数受賞.
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