「側頭葉」の役割はどのようなものか


東京女子医科大学

脳神経外科

平澤研一

 側頭葉もまたヒトにおいて高度に発達した領域です。側頭葉は脳を横から見たとき一目瞭然で,シルビウス裂と呼ばれる深く大きな溝の下側に存在します。さらによく観察すると,側頭葉には脳溝が2本横に走っているのが見えます。それぞれ上側頭溝と下側頭溝と呼ばれます。次に側頭葉を下から見ると,大まかに2本ほどの脳溝がみえ,それぞれ外側から後頭側頭溝,側副溝と言われています。この走行はかなり個人差に富んでいて,はっきり分けるのは難しいこともあります。内側には鉤(こう)と呼ばれる部分が張り出しており,脳幹とほとんど接しているのがわかります。ここは脳外科の臨床上,極めて重要な部位で,脳外科の緊急手術とはこの部位との戦いと言えなくもありません。すなわち頭部外傷にしろ,脳梗塞・脳内出血にしろ,脳が強くはれた場合,この鉤が脳幹を圧迫するために患者さんは昏睡状態,さらに死に至るのです。この鉤が脳幹を圧迫する前に,頭の中の出血を除去するなど脳の腫れを解除するような手術をする必要があります。
 側頭葉の外観がおおよそわかったところで,その機能を一つずつみていきましょう。まず,シルビウス裂の中の話です。ここは外からは見えません。シルビウス裂をわけてはいると,そこには聴覚の申枢があります。ここが両側で障害されると音が聞こえなくなってしまいます。この領域では音を認識するだけですが,その周辺では音をさらに区別する働きを持っています。優位半球(右利きの人では通常左半球)では言葉の理解をおこなっています。この優位半球の部分をウェルニッケ野といい,通常,上前頭回(上側頭溝とシルビウス列の間)にみられます。非優位半球(通常,右半球)の同部位では音楽の旋律や音程の認識が行われていることがわかっています。右半球の広汎な損傷のみられた方の中には,音楽が楽しめなくなった,と言われる方がいるのはこのためです。さて,ウェルニッケ野についてですが,これもBroca野同様,位置や広がりは個人差に富んでいることが示されています。この部分が障害されると,人の言う言葉が理解できないだけでなく,自分の頭の中の考えを言葉として組み立てることができなくなるため、軽い場合は錯誤といっていい間違える程度ですが、ひどい場合は言葉のサラダといわれるようにめちゃくちゃを言葉となってしまうことがあります。ここもBroca野のように手術の際には十分な検査が必要です。
 さて,ウェルニッケ野は上前頭回でしたが,それより下の中側頭回(上前頭溝と下前頭溝の間),下側頭回(下前頭溝と後頭側頭溝の間)は何をしているのでしょう。正確にはまだわかっておりませんが,単語の記憶がなされているようです。アメリカ人を対象にした実験では,前から順に人名,動物の名前,日用品の名前が記憶されているらしい,とのことでした。日本語は漢字,ひらがな,カタカナがあるため複雑なのですが,漢字は,より後ろの方で理解されているようです。
 側頭葉の底面には紡錘状回がみられます。ここの一部は先のウェルニッケ野と深いつながりがあるため,ここを電気刺激すると言葉が出なくなることがあります。しかし,手術等でやむを得ず切ったとしても,言葉の障害は出現しません。さらに内側に進むと,こんどは海馬傍回です。ここは大脳の他の部位と海馬・扁桃体とを結ぶ役割を果たしており,障害されると記憶障害が出現します。逆に側頭葉てんかんはここを介して他の皮質へひろがるため,手術の際はここも切除することが重要とされています。
 さて,海馬とはどこにあるのでしょうか。名前は有名です。断面を描いた絵も時々見かけます。しかし,脳の全体図にはどこにも海馬は描かれておりません。海馬傍回に続いてあるのですが,中に入り込んでしまっているため,外からは見えないのです。脳には髄液を作り出す脳室という場所がありますが,その中でも側脳室の下角といわれる場所の床が海馬なのです。下角をのぞくと,その床はつるっとして盛り上がっており,そこが海馬です。海馬の前端は足の指のように切れ込みが入っており,海馬足とも呼ばれます。側頭葉てんかんの中心をなす部位なのですが,本来は何をしている場所なのでしょうか。「海馬は認識し体験したことを時間的に整理し,記憶する」といわれています。特に,数時間から数週間程度の短期記憶を保持する場所です。長期間の記憶を要する事項は,入ってきた異なる情報,手触りと臭いとか,そのときにいた人とかに共通の印を付けて大脳に送り返します。そして大脳が長期記憶するための神経.回路が形成されるまでの間の短期の記憶を保持する役割を持つのです。左の海馬は誰が何を言ったなど言語性の記憶に関与し,右の海馬はいつ,どこでなど視空官間的な記憶に関与します。また,海馬はパペッツの回路と呼ばれる情動を司る神経回路の一部をなし,長期記憶に対する動機づけなどに関与します。扁桃体は,海馬頭部とともに鉤を形成しています。扁桃体は,外界が自分に取ってどのような意味を持つのかを判断します。すなわち,自分の敵なのか,味方なのか,快か不快か判断し,本能的・感情的な行動のもとになります。また物事の記憶の際に感情を付け加え,後で思い出すときにそのときの感情も一緒に思い出させる役割もします。こうしてみると,海馬も扁桃体も,その人間にとって極めて重要な働きをしています。側頭葉てんかんの方たちにとっては,発作のもととなる場所とはいえ,手術して取ってしまってもよいものなのでしょうか。しかし,側頭葉てんかんのもととなるような海馬や扁挑体は,MRIでみても多くの場合極めて萎描してしまっており,また深部電極で詞べてみても異常な脳波を出しており,すでにまともには働いていないと思われます,我々の手術の経験でも,術後たしかに記憶力が落ちることはありますが,それは無関係なもの同士を無理矢理覚えようとした際の記憶であり,日常,仕事や学業で必要とされる,関係のあるもの同士を関連づけて覚える記憶力は保たれるのが普通です。知能検査をしても術前と変わらないか,むしろよくなることさえあるといわれています。扁桃体がてんかんのもととなっていたある青年の場合,術後記憶力が不変であったことはもちろん,それまでは常に外界に対して警戒したような表情を示していたのが,術後明るく人なつこい顔となったのが印象的です。いずれにせよ,手術前は十分な検査,本当にそこがてんかんのもとであるのかを検査することはもちろん,その人にとって,その海馬・扁桃体がどの程度記憶に関与しているのかを調べることも,今後の課題と思われます。