メディア掲載・関連書評 etc.11(創風社 Web紹介分のみ)

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郭煥圭著『台湾の行方 Whither Taiwan?』(東京新聞 05/11/30)
島崎隆著『現代を読むための哲学』(岩手大学 池田成一 06/1/5)
「台湾知識人・郭煥圭(Quo.F.Quei)について(『台湾の行方』書評)」(国際交流研究所 所長 永井務)
松尾隆著『Cerebral palsy 英語版脳性麻痺の整形外科的治療』(「夢の扉(TBS)」06/5/2?)
『子どもカレンダー』読売新聞(06/7/20)

島崎隆
『現代を読むための哲学 宗教・文化・環境・生命・教育』
(創風社,二〇〇四年)
岩手大学 池田成 一

 本書は,副題に示されているアクチュアルな現実問題の数々に,哲学者の立場から 正面から取り組んだ力作である。「現実の問題理解に何らかの意味で役に 立たなけ れば,哲学という膨大で仰々しい知識も無用の長物ではないか」(三頁)という危機 意識と,哲学によって鍛えられた「方法や理論構築なしに,ただ 目前に現れるホッ トなテーマを追いかけることだけでは,どこまでも広く,そして深く掘り下げようと する本格的な考察はできない」(四頁)という哲学にか ける情熱がせめぎあうさま が伝わって,我々を深い思索へと誘ってくれる。  
 「近代市民社会」は,政治的には「自由・平等・友愛」,経済的には「労働にもと づく所有」と「商業社会」,哲学的には「近代合理主義」によって特徴づ けられ る。これに対して現代は,これらの「近代の延長・発展という側面とともに,まった く近代を承認せず,それに徹底的に背く側面とを内包して」(二〇 頁)おり,この 二面が対立・相克しあっているというのが現代に内在する根本的な矛盾である。この 矛盾を解くためにこそ弁証法的方法が有効であり,それが 「近代に立ち近代を超え る」(五頁)ことを可能にする。以上が本書を貫ぬく基本的なスタンスである。  
 第一章「近代合理主義のゆくえと現代社会の位相」は,オウム真理教についてのい ろいろな論評の中から,《民主主義的相対主義vs宗教的絶対主義》《現 世主義vs (理想をめざす)来世主義》《物質主義vs精神主義》という,近代vs反近代の対立を とりだし,ここで対立物の統一という弁証法的思考が要請 されるとする。順番では 後にくるが,第五章「断食の思想と科学」も,断食が宗教的側面をもつために,問題 としては連続している。一見非合理な宗教や断食 の中に近代合理主義が見落とした ものがあり,「科学と宗教的・神秘的・非合理的なものとは,総じて近代と反近代と は相互に対話を交わすべき」(五一頁) なのである。特に,断食については,島崎 氏自身の体験に裏付けられているだけに説得力がある。ただ評者の観点からすると, 宗教の問題を「神秘的体験」や 「超能力」に対してどういう態度をとるかに収斂さ せていくようにみえるところにやや違和感を感じた。《物質主義vs精神主義》という 対立物を相互に流動 化させるためには,フォイエルバッハの疎外論的宗教論のよう に,宗教がなりたつ構造そのものを論じた上で,「物質主義」になかにひそむ「精神 主 義」,「精神主義」のなかにひそむ「物質主義」をとりだすことが不可欠ではな いかと思うからである。  
 以上のような「宗教」をめぐる問題と並んで重視されているのは,「文化」の問題 である。近代主義者が同時に西洋中心主義者として普遍性を振りかざすの に対し て,チャールズ・テイラーらの「多文化主義」が対立する状況が,第二章「近代的価 値観から多文化的共生への歩み」でとりだされる。島崎氏はさら に,第二章と第三 章「《相互文化哲学》とヨーロッパの自己批判」で,フランツ・ヴィンマーらの「相 互文化哲学(interkulturelle Philosophie)」を紹介し,「多文化主義」との比較を行なっている。より社会科学的 である「多文化主義」に対して,「相互文化哲学」はより哲 学的であり,両者は相 互補完的であると結論されている。けれども,島崎氏が紹介しているところによる と,ヴィンマー自身は「多文化主義」に対して批判的 であるようであり,おそらく 「相互文化哲学」は,ロマン主義や解釈学に依拠するチャールズ・テイラーの文化概 念とはあいいれない,文化の雑種性(異種混 交性)を重視するポスト=コロニアリ ズムに近い文化概念をもっているのではないかと推察される。もしそうだとすると, 「多文化主義」と「相互文化哲学」 の間には,社会科学的か哲学的かということではなく,「文化」とは何かという問題 をめぐる哲学的対立が存在しているように評者には思われた。この問題に ついて考 える上でも,さらに島崎氏に「相互文化哲学」について詳しい紹介をお願いしたいと 思う。  
 第四章「自然哲学は環境問題とどう関わるのか?」では,デカルト的,ロック的な 自然観と,ロマン主義的あるいは有機体的・全体的な自然観との対立が, エンゲル スの弁証法的自然観によって止揚されていると主張される。途中,デカルトは「人間 中心主義」ではないという小林道夫氏の議論が問題とされている 点に,評者は関心 をもった。おそらく,「世界に中心はない」というジョルダノ・ブルーノの思想とデ カルトの思想との異同が問題なのであり,ここから近代 的自然観自身の内在的矛盾 をとりだすことができそうだと思われる。注(16a)で触れられているヴェルシュの考 えもその方向をむいているであろう。  
 第六章「現代の教育問題を哲学から照射する」は,島崎氏が子息を在学させて熟知 されているオーストリアのギムナジウム教育の状況を手がかりに,日本の 教育にお けるテツブン(哲学的成分)の不足からくる貧血状況を鋭く問い,「市民相互の豊か なコミュニケーション」と「個人に対する厳しい自己責任」の二 要素に立脚した 《市民社会の人間学》にもとづく教育を提唱している。島崎氏は既に『ウィーン発の 哲学』でこのテーマを扱っており,またオーストリアのギ ムナジウムの教科書『哲 学の問い』を監訳して日本に紹介されている。後者の翻訳には評者も参加したが, オーストリアにおける哲学教育の水準の高さには強 い印象を受けた。関心のある方 は是非御覧頂きたい。  
 最後に,補章として「ヘラクレイトスの《リヴァー・パラドクス》」が論じられ, 改めて哲学的対話の重要性が説かれている。  
 また,各章の最後にのせられている書評が,島崎氏の「対話の哲学」の実践とも なっており,また本の構成を立体的にし,扱われる問題に広がりをもたせる ことに も成功していると感じられた。

『Cerebral palsy 英語版脳性麻痺の整形外科的治療』(「夢の扉(TBS)」06/5/2?)
録画DVD創風社に有り、保育園での学習会の様子